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歴史とは何か EHカー 岩波新書 1964

歴史とは何か EHカー 岩波新書 解題

これまで生活してきた中で歴史というものの意味を考えたことなど一度もなく、ただ漠然と過去に起きた出来事の積み重ねというようなイメージしか持っていなかった。

しかし、大学などの研究機関で歴史学としての分野が成り立ち、また、これまでも当然のように歴史が学ばれている、という事実がある限り、われわれはこれに何らかの意義を見出すことができるだろう。

EHカーは者善「歴史とは何か」において歴史というものに対するひとつの解釈をわれわれに提示した。

解釈という表現が正しいかどうかはわからないが、あえてこの言葉を用いようと思う。

この本は、歴史というものに対して何かしらの懐疑心をも持たずに生活してきた自分にとってとても新鮮であり、多少の共感と疑問、反論を抱かせた。

カーは、歴史あるいは歴史家についての彼なりの考察をさまざまな引用や事例を用いて全六章にわたって展開している。

「歴史とは何か」を読むにあたり、カーがわれわれに投げかけた問題はなにか。

そして、その意味は何であるのか。

以下の手順で記そうと思う。

まず、「歴史とは何か」を要約し、カーが伝えようとしたことを端的にまとめる。

最後に、結論的な意味で歴史とは何であるのか、われわれはどのような姿勢で歴史を学ぶべきかを考え、論じる。

 

歴史とは何か

カーは、解釈の重要性について何度も強調した。

たとえば、「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」を対比する常識的発想を批判し、歴史上の事実は純粋な形で存在するものではなく、記録者の心を通して屈折して伝えられるものだと指摘し、だから歴史書の読者は先ず歴史家を研究せねばならないと説いている。

あるいはまた、事実というものは魚屋の店先にある魚のようなものではなく、歴史家が海で捕まえてくるものだとも述べられている。

歴史家がどのような魚を捕まえるかは、大洋のどの辺で釣りをするか、どのような釣り道具を使うかなどに規定されるが、後者はその歴史家がどのような魚を釣ろうとするかによ、って決定される。

ということは、歴史家は自らの好む事実を集めるということになる。

こうした議論をうけて、「歴史とは解釈のことだ」と言い切った個所さえもある。

歴史において解釈は多様である。

この解釈の多様性は、歴史学を学問としてあいまいにしてしまうが、そのことは歴史学から抜き取ることのできない性質なのである。

このような解釈はすでに歴史家の集める史料に含まれているのである。

つまり歴史家は、解釈されたものを解釈するのである。

そういうものが歴史の認識につながるのだろう。

各歴史家の持つ解釈原理、すなわち歴史家の「歴史観」なしには歴史の事実はないということになる。

歴史観は、歴史家がそれぞれ持っているものであるから、それによって解釈される事実も違ってくるのだ。カーの言う「先ず歴史家を研究せねばならない」とはこのことからであろう。

では、歴史観とはどのようなものであろうか。

どんな歴史家でももっている固有の立場、選択基準、解釈原理、価値観などをひっくるめて歴史観とすればよいだろう。

それらのものが、結局、歴史家の知識であり、それが歴史家の生きている時代や社会に大きく依存し影響を受けているとすれば、その時代が変わり、社会が変われば知識も変わるから、それにつれて歴史も変わり、歴史観が変われば歴史の事実も変わる、ということになるのである。

つまり、歴史の事実は動いているのである。

事実の内容が動いているのではなく、事実としたこと自体が動くのである。歴史にも歴史があるといえるのだ。

歴史観がなければ歴史は書けないのだから、歴史家は、歴史を書く前に、自分の歴史をよく吟味しておかなければならない。

また、歴史の本を読む者は、書かれている事実を鵜呑みにしないで、それがどういう歴史家のどういう歴史観によって書かれているのかというところまで読むべきである。

そこまでいかなければ本当の歴史の研究にはならないのではないだろう

 

最後に、歴史の意味とは何か。歴史を知ることにどのような意義があるのだろうか。

われわれが歴史に向かうのは、われわれ自身を知ろうとしてである。

私たち自身を知るためには多くの人文・社会の学問があるように、その方法は様々である。

しかし歴史的方法はその全ての基礎にあり、事物をその生成によって捉えようとするものである。

歴史的にみずからを知ろうとすることは、普段に生成転化する歴史世界の中において、同じくまた不断の生成

転化の過程にあるわれわれがどのような位置を占めるかを明らかにしようとすることである。

ここにみずからへの問いは客観的歴史的世界への問いに結びつく。

われわれはこの正解の私たちにとっての意味を問うているのである。

われわれは、他のあらゆる学問の場合におけると等しく、歴史的世界の最も多くを説明すると見える仮説をたて、歴史世界の意味するところを解こうとする。

しかし歴史世界の意味、つまり本質は、すでに過去となった時代の中に与えられているとは言えない。

なぜなら現在において完結した過去と言うものはないからである。

したがってわれわれが過去の世界について理解しえたと考える歴史の意味は、常に現在において検証されなくてはならない。

この検証なしにはわれわれは一刻も、われわれの捉えた歴史の意味に安んずることはできないのである。

この検証の過程は、しかし原則上、必ず検証された意味の更新を伴うであろう。

そしてこの意味にしたがってわれわれの歴史が構成されるとすれば、歴史はそのたびごとに書きなおされるのであるが、この過程は原則として無限に続くものである。

この意味では、歴史の意味とは、不断にみずからを新しくする、しかし常に未完結の真理であるということができよう。

そこにまた、あらゆる歴史的認識は、「一切は最後のときにいたって明らかになる」という終末観的真理に通ずる性格を持ち、したがってつねに危機的緊張に満ちた認識であるということができる。

歴史の認識が常に危機的性格を持つと言っても、安定した時代には、歴史の意味はおのずから不変のものとしてあらわれ、歴史的認識の危機的性格も、したがってまた歴史そのものの性格も自覚されにくい。

しかし歴史の歩みが現代のように急速であり、既存の歴史観、つまり歴史の相対的認識の体系が現実の把握に役立たなくなるとき、人々は自らの存在をかけて歴史の意味の再発見に努めざるをえない。

ここに既存の秩序の崩壊する危機の時代に、歴史の危機的性格が、したがってまた歴史そのものが強く意識されざるをえないと言うことになる。

いずれにせよ、歴史の意味とは、歴史の最先端における認識の中に与えられ、また常に更新されるものであり、客体的に与えられているものではないのである。

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