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広報資料に見る京葉港第2次埋立て事業

画像資料(「広報習志野」掲載記事)に基づく、京葉港第2次埋立て事業の経過(時系列)および概要(習志野市案の成就とまちづくりへの貢献)のまとめは以下の通りです。

1. 京葉港第2次埋立て事業の時系列経過

  • 昭和41年(1966年)11月:県案の提示 千葉県より、葛南地域(船橋〜習志野〜千葉)における大規模な重工業・港湾・物流拠点開発を中心とした「京葉港第2次埋立基本計画」が習志野市に提示されました。
  • 昭和42年(1967年)11月:計画の白紙撤回と協議開始 習志野市(吉野市長)と千葉県(友納知事)の会談により、重工業優先の「県原案」は一旦白紙撤回。文教住宅都市としての住環境保全と住民福祉を最優先する姿勢から、市主導の協議・調整が本格的にスタートしました。
  • 昭和43年(1968年)〜昭和45年(1970年)7月:市案の策定と修正要望(第1次〜第4次修正案) 市は学者グループや市民生活優先の立場から「習志野市案」を策定。石油コンビナート建設の取りやめ、公害防止、鉄道路線(ヤード)の海側移動、緑地帯・住宅用地・公共施設用地の確保などを県に強く要請し、修正(第1次〜第4次修正案)を重ねました。
  • 昭和47年(1972年)7月:着工と行政境界確認 「住民福祉優先」「文教住宅都市」の理念が大幅に取り入れられた土地利用計画が取りまとめられ、昭和47714日に事業が着工されました。同722日には船橋市・習志野市間の行政境界確認が行われ、市民生活最優先の土地利用計画作成に入りました。
  • 昭和52年(1977年)3月〜12月:竣工と土地購入 オイルショック等の社会情勢の変化を経て、昭和523月に埋立工事が竣工。同年12月、習志野市は埋立地のうち約3分の15.03平方キロメートル)を県から購入し、新市街地としての造成・整備を進めました。

2. 習志野市案の成就と新しいまちづくりへの貢献(概要)

【習志野市案の成就(転換点)】

当初の千葉県案は、重化学工業や大商業・物流拠点を中心とした「工業開発主眼」の計画でした。これに対し、習志野市は「文教住宅都市」の理念のもと、「工業開発基地から生活基地への転換」を掲げて粘り強く交渉を展開しました。 その結果、以下の市案が全面的に成就しました。

  1. 石油コンビナート等の公害発生源の排除・撤回
  2. 鉄道路線(ヤード)や幹線道路の海側移設・集約による住宅地からの公害遮断
  3. 十分な緩衝緑地(グリーンベルト)や公共・文教用地の確保

【その後の新しいまちづくりへの多大な貢献】

埋立完了によって誕生した新市街地(秋津・香澄・芝園・袖ケ浦周辺等)は、現在の習志野市の基盤となる魅力的な住環境と都市機能をもたらしました。

  • 教育・福祉施設の充実: 秋津小学校・秋津保育所・県立津田沼高校などの教育施設をはじめ、総合福祉センターやコミュニティセンターなどの公共・福祉施設が次々と整備されました。
  • 広大な公園・緑地とレクリエーション環境: 公害防止のための緑地帯(緑道)や、市民が親しめる大規模な公園(秋津公園・香澄公園など)、スポーツ・レクリエーション施設が確保され、潤いのある住環境が実現しました。
  • 住生活基盤と多様な都市機能の構築: 日本住宅公団等の住宅団地(秋津団地等)やショッピングセンターの整備が進み、安全で快適な職住近接の理想的な住宅地・新都市ゾーンとして発展を遂げました。

このように、市主導による「住民福祉優先」の土地利用計画への変更と成就は、単なる埋立地の開発にとどまらず、習志野市の将来にわたる文教住宅都市としての価値を高める大きな貢献を果たしました。

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