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『広報習志野』の記事に基づき、国鉄(現JR)津田沼駅南口の開発計画

『広報習志野』の記事に基づき、国鉄(現JR)津田沼駅南口の開発計画および「習志野一中」跡地の処分方針決定から、習志野市文化ホール完成(サンペディック/現奏の杜周辺エリアの再開発事業)に至るまでの経過を時系列で整理し、その裏にあったエピソードとともにまとめました。

1. 時系列でみる開発と文化ホール完成までの経過

  • 昭和44年(1969年)頃
    • 市の長期計画に基づき、文教都市・習志野の表玄関として、また武蔵野線沿線に挟まれた唯一の駅前大規模開発地として、津田沼駅南口の計画検討が開始される。
  • 昭和45年(1970年)1215日号(広報習志野 第241号)
    • 「駅周辺の都市改造計画」として、国鉄津田沼駅南口の広場整備や商店街の近代化、再開発構想が発表される。
    • 老朽化した「第一中学校(一中)」の移転(兵号地区への移転)に伴う跡地利用、および南口再開発(公園、ショッピングセンター、文化ホールなどの建設)の基本構想が本格化。
  • 昭和46年(1971年)1015
    • 市長により「国鉄津田沼駅南口の開発計画事業」が公表される。日刊紙等を通じて広く民間事業者の公募・選定作業を開始。
  • 昭和47年(1972年)815日号(広報習志野 第284号)
    • 「憩と緑のある市民広場へ」として南口開発の具体構想が示される。
    • 旧一中跡地の活用として、単なる商業地化ではなく、都市公園、文化ホール、ショッピングセンターなどを配した「文教・住宅都市の表玄関」づくりの方針が明確化される。
  • 昭和48年(1973年)1月〜2月(広報習志野 第295 / 昭和4821日号)
    • 市議会にて「旧一中跡地処分案件」が可決。
    • 専門家や市民代表などによる選考委員会を経て、開発事業者として「フジタ工業(株)」に内定。土地の売却・処分手続きおよび協力協定が締結される。
    • 文化ホール建設費の負担や第三セクター方式導入の基礎が固まる。
  • 昭和51年(1976年)〜昭和52年(1977年)(広報習志野 第375号など)
    • 文化ホールの詳細設計が進み、財団法人「習志野文化ホール」の設立など経営体制(第三セクター方式)が整う。
    • 署名運動や募金活動など、市民運動が活発化。
  • 昭和53年(1978年)321
    • 習志野市文化ホールがグランドオープン(「サンペディック」街区の核施設として誕生)。

2. 習志野市文化ホール完成までのエピソード

単なる「土地売却」にとどめない、文教都市としてのこだわり

津田沼駅南口の開発において、旧第一中学校の跡地(約22400㎡)は極めて価値の高い超一等商業地でした。しかし、習志野市はここを単なる商業ビルや繁華街として処分・開発するのではなく、「文教住宅都市・習志野の象徴」にふさわしい空間にすることを強く求めました。 商業施設(サンペディック)に隣接して広大な都市公園と本格的な「文化ホール」を配置する計画は、都市の「憩いと文化の拠点」を作りたいという強い意志の表れでした。

財政難を克服した「民間協力」と「第三セクター(財団法人)方式」

文化ホールの建設には莫大な費用(当時で建設費等含め数十億円規模)がかかるため、当時の習志野市の財政状態では大きな負担でした。 そこで市は、開発事業者であるフジタ工業(株)との協議において、**「文化ホール建設費の半分(約59000万円)を企業側が寄附・負担する」**という異例の協定を結びました。さらに運営に関しても、市と企業・市民が一体となって支える財団法人(第三セクター方式)を設立することで、自治体の単独負担を抑えつつ、質の高いホールの実現と運営を図りました。

市民の熱意と「12万市民の力が結集」した運動

文化ホールの建設に向けては、行政と事業者だけでなく市民の熱意が大きく寄与しました。 「音楽のまち・習志野」にふさわしい本格的なホールを望む市民、音楽団体、サークル、PTAなどが立ち上がり、早期建設を求める署名活動建設基金のための募金活動が市内で大々的に展開されました。広報紙でも「市民の力で創る文化資産」として広くアピールされ、市民一人ひとりの想いがホールの誕生を後押ししました。

音楽都市・習志野のシンボル(本格パイプオルガンの設置)

完成した習志野市文化ホール(1,470席)は、音響性能の高さはもちろんのこと、全国の公立劇場・ホールに先駆けて**西ドイツ製の本格的な大パイプオルガン(31ストップ、パイプ数2,168本)**を備えたことで一躍有名になりました。 「響きわたるパイプオルガンの調べ」と称されたこのホールは、学校吹奏楽や合唱活動をはじめとする習志野の豊かな音楽文化をさらに発展させ、名実ともに「音楽都市習志野のシンボル」として歴史を刻むこととなりました。

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