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『遠い山なみの光』(原題:A Pale View of Hills)、カズオ・イシグロ  

遠い山なみの光』(原題:A Pale View of Hills)、カズオ・イシグロ

 

『遠い山なみの光』(原題:A Pale View of Hills)は、カズオ・イシグロ1982年刊行のデビュー長編小説であり、戦後長崎と1980年代のイギリスを舞台に、女性の記憶と贖罪(しょくざい)を描いた作品です。

本作では「信頼できない語り手」の手法を核に、主観的な記憶と歴史的経験が交錯する構造を持っています。

1. 物語概観

時空構造

物語は二つの時間軸で進行します。

1.     1980年代のイギリス:主人公・悦子(年老いた姿、吉田羊)がロンドンから帰国した娘・ニキ(カミラ・アイコ)と再会。

2.     1950年代戦後長崎:若き日の悦子(広瀬すず演)が、戦後復興期の長崎で過ごした日々を回想。

この二つの軸は交互に描かれ、現在の語りが過去を再構築する形で提示されます。回想に登場する佐知子とその娘・万里子は表面的には他者として描かれますが、やがて悦子自身と長女・景子の投影であることが明かされます。

あらすじ(核心)

  • 悦子は戦後、長崎で妊娠中に夫・二郎や父・緒方と生活。
  • 川沿いに住む佐知子と娘・万里子との関わりを回想。
  • 娘の景子は物語の中で忽然と死に至る。
  • 娘ニキとの会話によって、悦子の語る過去には「嘘」と「投影」が含まれていたことが判明。
  • 悦子は自らの過去の罪悪感や、長女・景子の死への贖罪を佐知子と万里子の物語に仮託して語っている。

2. 核心的テーマと解釈

信頼できない語り手

悦子は自身の過去を客観的に語るのではなく、無意識に改変し、投影や寓話化を行っています。

この手法により、読者・観客は「真実と虚構の境界」を意識しながら物語を読み解く必要があります。

四つの秘密(物語構造の鍵)

1.     被爆体験:戦争体験と子供救済への罪悪感を抱える悦子の隠された原体験。

2.     蜘蛛と血の呪い:被爆による遺伝的影響への恐怖を象徴。

3.     猫殺しと微笑:悦子が娘の未来のために行った残酷な行為の投影。

4.     川向こうの女:悦子自身と長女の投影、殺意や葛藤の象徴。

これらが、悦子が抱えてきた罪悪感、母としての葛藤、戦争・社会の影響を映しています。

記憶と自己の再構築

本作では過去を語り直すことで、主人公が自身の経験を整理し、内的な再生を試みる構造になっています。

悦子の語りは、個人的トラウマや喪失感、文化的・社会的制約を乗り越えるプロセスを提示しており、文学的な「余白」の中に読者の想像を促します。

希望と再生

  • 映画的・文学的両面で、「遠い山なみの光」は未来への希望の象徴。
  • 物語冒頭の長崎の稜線や光景、娘ニキの成長・妊娠は、過去の悲劇を乗り越えつつ人生を紡ぐ象徴的描写です。
  • 悦子の覚醒は、過去の罪悪感に向き合い、未来への歩みを決意する心理的転換を意味します。

3. 映画化との関連

  • 石川慶監督により2025年に日英ポーランド合作で映画化。
  • 時間軸の非線形構成や、記憶の主観化を映像で表現。
  • 映像表現における色彩対比(戦後長崎は鮮やか、英国は暗め)や幻想シーンで、語り手の心理・回想の曖昧さを再現。
  • 原作者イシグロもエグゼクティブ・プロデューサーとして制作に参加。

4. 文学的評価と特徴

  • 信頼できない語り手の技巧により、過去の出来事と個人的記憶の重なりが最大の読みどころ。
  • 戦後長崎の復興・被爆者の心理・女性の社会的立場を描くことで、普遍的な喪失と再生がテーマ化。
  • 読者の想像力に委ねる部分が多い構造で、「何が現実か」を問う文学的挑戦。

5. 結論

『遠い山なみの光』は、戦後日本の記憶と個人の贖罪、罪悪感と希望の物語を描いた文学作品であり、信頼できない語り手の視点を通じて、過去と現在、虚構と現実、絶望と再生が交錯する複層的構造を持っています。タイトルにある「遠い山なみの光」は、過去の苦難を経て未来への小さな希望を照らす象徴として機能し、読者・観客に心理的余韻を残します。

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